山形市議会 2012-06-19 平成24年 6月定例会(第2号 6月19日)
霞ヶ城は、昨日18日付山形新聞ふるさと文化財に掲載されたように、延文元年、1356年斯波兼頼公が山形に入部し、翌年、現在の山形城二の丸東半分の場所に城を築いたと言われている。その後歴代の最上氏が居城としたが、11代城主最上義光公が文禄年間、1592年から95年ころ、大幅に拡張して今日の形に整備した。その規模は、本丸、二の丸、三の丸という環状三重の堀を有する壮大な城であり、天守閣はつくらなかった。
霞ヶ城は、昨日18日付山形新聞ふるさと文化財に掲載されたように、延文元年、1356年斯波兼頼公が山形に入部し、翌年、現在の山形城二の丸東半分の場所に城を築いたと言われている。その後歴代の最上氏が居城としたが、11代城主最上義光公が文禄年間、1592年から95年ころ、大幅に拡張して今日の形に整備した。その規模は、本丸、二の丸、三の丸という環状三重の堀を有する壮大な城であり、天守閣はつくらなかった。
延文元年,1356年,最上氏初代斯波兼頼公が山形に入部後,11代義光公が戦国の世にあって近隣を従え,奥羽の大大名として今日の山形の礎を築き上げ,中興の祖であったことは,毀誉褒貶はともあれ紛れもない事実である。 義光公は1546年,天文15年生まれ,1614年,慶長19年に69歳の波乱の生涯を閉じた。
山形城は,山形に入部した斯波兼頼によって,延文2年に築城されたものと伝えられております。そしてこの城が最も大きな規模に構築されたのは,文禄の初め,最上義光によるもので,本丸・二の丸・三の丸を有し,三の丸の規模は東西1,626メートル,南北1,882メートルに及び,まさしく平城としては全国有数の大きさであったとされています。
その後南北朝の時期に当たる延文元年1356年,兼頼公が大崎,現在の中新田町より,出羽探題として山形地方に入部してきました。今をさかのぼること648年前であります。翌2年から山形城の築城にかかりましたが,その規模は現存している山形城の本丸程度で,土塁郭・堀などをめぐらした城よりも館に近いものだったろうと推測されております。
初代山形城主斯波兼頼が北朝方の勢力を出羽国山形に延ばそうとして,延文元年(1356年)奥羽大崎(今の宮城県中新田町)より尊栄“法印”とともに僧行基作の昆沙門天像を奉じて,最上川をさかのばり,さらに須川をのぼって中野地内宮代に上陸し,約1km南に進んで中野の集落に達したが,昆沙門天像が非常に重く,7km先の山形まで運ぶことが出来なかった。止むなく毘沙門堂を建て安置し,山形へ出発されました。
山形城は延文元年(1356年)に斯波兼頼が入部し,築城をなし,最上氏の祖となりました。11代最上義光が約400年前の文禄年間に城郭の大拡張を行い,山形城下を整備し,今日の山形の発展の礎を築いたわけであります。